2026年5月17日日曜日

灯の数

灯の数

灯の数


その喫茶店の入口には、煙草が吸えることを示す古いステッカーが、ガラス戸の内側から貼られていた。

四隅が黄ばんで、文字の縁が少し剥がれている。何年前からそこにあるのか、店主の老人も、たぶん覚えていない。町に喫煙できる店がほとんどなくなってからも、その店だけは、表示を貼り替えることも剥がすこともしなかった。

カウンターの上の天井に、蛍光灯が一本あった。
白い光が、ごくわずかにちらついていた。

橋本は、その光の下で、煙草の煙がほどけていくのを眺めていた。

向かいに坂井が座っている。
中学のころからの知り合いだった。仲がいいわけではない。ただ、害がなかった。

害のない人間というのは、年を取るほど貴重になる。

外は晩秋だった。海から来た風が、商店街の閉じたシャッターを低く鳴らしていた。


「整備士の資格を、ちゃんと取ろうかと思っている」と、橋本は言った。

坂井はコーヒーを一口飲んだ。
カップを置くとき、音をたてなかった。
何も言わず、続きを待った。

「三級だけでも、取れば少しは違うと思う」
「親方は何て」
「やる気があるなら、講習にも出していいって」

坂井は、ふうん、と言った。
それから、また黙った。

橋本は、自分の言葉が、まだ自分の中で固まっていないことに気づいた。

「別の港町に出ようかとも思う。釧路でも、根室でも。あっちなら工場の数も多いし」
「向こうに知り合いはいるのか」
「いない」
「住むところは」
「決めていない」

坂井は煙草に火をつけた。
火をつけるとき、彼の指は震えていなかった。

橋本は、いつのまにか、人の指を見るようになっていた。
震えるか、震えないか。
そういうことを、見る。

たぶん、前の職場で身についた癖だった。


「金は」と、坂井は聞いた。
「ない」
「借金は」
「少し残っている」

坂井は頷いた。
頷いたあと、しばらく黙っていた。

蛍光灯が、ちかちかと明滅した。

「お前さ」と坂井は言いかけて、いったん止めた。

煙草の灰を、灰皿に落とす。
古い陶器の灰皿だった。底に細かいヒビが入っているのが、橋本の席からも見えた。

「これまで何回、仕事を変えた」

橋本は、頭の中で数えた。

「最初の場所を入れて、四回か、五回」
「最初の場所は?」
「自衛隊」

坂井は驚かなかった。
昔から知っていることを、確認するように頷いただけだった。

「自衛隊は、何年いた」
「短かった。16で入って20代の初めまで」
「辞めた理由は」

橋本は、しばらく考えた。

「合わなかった、というほどではなかった。むしろ、合っていた部分もあったと思う。決まった時間に起きて、決まった手順で動いて、決まった服を着て、決まった靴を磨く。それでよかった」
「それで、なぜ辞めた」
「自分でもよくわからない。ただ、ある時期から、ここではない場所のことを考え始めた」

坂井は、何も言わなかった。

煙が、蛍光灯の下で、ゆっくり上に昇っていった。


橋本は、自分の十代の終わりからの年月を、もう一度順番に並べた。

自衛隊を出て、医療系の専門学校の夜間部に通った。昼は働き、夜は慣れない教室にいた。卒業して病院に入り、腰を痛めて事務の助手になり、合わないと言われて配達に変わった。冬の坂が辛くなって、フェリー会社の窓口に移った。そして今、整備工場で五年目になる。

辞める理由は、毎回違っていた。
ただ、次を選ぶときは、いつも、ここではないどこか、というだけだった。

ここに行きたい、ではなかった。

そのことに、三十代も終わりに近づくこの年まで、気づかずにいた。
気づかないことで、生きてきたのだった。


「お前さ」と坂井は、もう一度言った。

煙草を灰皿の縁に置く。

「最初の場所を辞めてから、ずっと、辞めることだけ選んでいる気がする」

橋本は、それをすぐには受け取れなかった。

何かを言い返そうとして、口を開きかけて、閉じた。

坂井は、それ以上は言わなかった。
責めているのでも、慰めているのでもなかった。

それが、いちばん効いた。


橋本は煙草に火をつけた。

自分の指が、わずかに震えていた。
坂井がそれを見たかどうかは、わからなかった。

蛍光灯がまた、ちかちかと光った。
店主の老人は、カウンターの奥で新聞を読んでいる。こちらの会話には、目もくれなかった。

橋本は、最初の場所のことを考えた。

あの場所では、自分のことを自分で考えなくてよかった。
起床も、食事の時間も、姿勢も、靴の磨き方も決まっていた。
迷うことが少なかった。

それで、楽だった。
楽だったから、合っていた。
合っていたのに、辞めた。

辞めた理由を、彼は坂井に正確には説明できなかった。
ただ、ある時期から、外側ばかり整っていて、内側に何もないような感じが強くなった。

それで、辞めた。

辞めたあとは、自分の形を、自分で保たなければならなかった。
それがうまくできないから、また別の場所に移った。

別の場所に行けば、その場所の決まりが、しばらくは彼を保ってくれた。
ただ、どの場所も長くは続かなかった。

そう気づいたとき、橋本は、自分のことを少しだけ可哀想だと思った。
長くは思わなかった。扱いに困るからだった。


「整備士の資格な」と、坂井は言った。
「取りたいのか、取らなきゃいけないと思っているのか」

橋本は、すぐには答えなかった。

「両方かな」

坂井は、ふうん、と言った。

橋本は、カウンターの上の蛍光灯を見ていた。

工場の天井の、奥から二番目の蛍光灯。
自宅の台所の、奥から一番目の蛍光灯。
港の防波堤の、陸から二本目の外灯。

点いているものと、消えているものと、そのあいだにあるものが、町の中にはいくつもあった。

その下で人は、何でもないような顔をして生活している。


「坂井」と、橋本は言った。

坂井は、煙草を口から外して、こちらを見た。

「俺は時々、消えてしまいたいと思うことがある」

坂井は、頷きもせず、驚きもしなかった。

「死にたい、ということか」
「いや、それとは違う」
「違うのか」
「違う。死にたいわけじゃない。ただ、世界中の誰も、俺のことを最初から知らなかったことにしたい、と思う」

言ってしまってから、橋本は、自分の手のひらが冷たくなっているのに気づいた。

煙草の煙が、蛍光灯の下で、ゆっくり上に昇っていた。

坂井は、しばらく何も言わなかった。

「それは、何年ぐらい思っている」
「ずっとだ」
「ずっと、というのは」
「もう、十年は超えている」

坂井は、煙草の灰を落とした。

「そうか」とだけ言った。

慰めもしなかった。
励ましもしなかった。
否定もしなかった。

ただ、そうか、と言った。

橋本は、その短さに、救われたような気がした。


店主の老人が、奥でラジオをつけた。

音量を絞っていたので、何を言っているのかは、橋本の席までは届かなかった。ただ、低い男の声が、雑音越しに断続的に流れている。

橋本は若いころ、無線機が好きだった時期があった。
冬の夜、ノイズの中から遠い町の声を拾うのが好きだった。

富山、新潟、酒田、稚内。

顔の見えない人間の声を、自分の部屋で何時間でも聞いていられた。
無線の声は、彼に何も要求しなかった。
答える必要もなかった。

その話を、坂井にしたことはなかった。

いま、老人のラジオから流れてくる声を聞きながら、橋本は、坂井との距離も少しそれに似ていると思った。

近すぎず、遠すぎず、答えを急がされない距離。

今夜は、その距離が、ちょうどよかった。


「明日も工場か」と、坂井は聞いた。
「ああ」
「タイヤ交換、入っているのか」
「三件」

坂井は頷いた。

「資格の話は、また今度でいいんじゃないか」
「ああ」
「移住の話も」
「ああ」

坂井は、コーヒーを飲み干した。

「今夜の話は、聞いた。明日になっても、聞いたことにしておく」

橋本は、それを聞いて、しばらく動けなかった。

胸の奥で、何かが、ほんの少しだけ緩んだ。
それだけのことだった。


橋本は煙草を消した。
坂井も、自分の煙草を消した。

二人は会計をして、店を出た。

店主の老人は、ありがとうございました、とは言わなかった。
彼はいつも何も言わなかった。
それも、この店の習慣のひとつだった。

外は風が強かった。
晩秋というより、もう冬の入口だった。
湿った雪が、わずかに落ち始めていた。

商店街の閉じたシャッターが、風に鳴っている。

坂井は「じゃあ」と言って、反対方向に歩いて行った。
振り返らなかった。

橋本は、家まで歩いた。

途中、防波堤の外灯の下を通った。
七本のうち、陸から二本目だけが、今夜も点いていなかった。

橋本は、その消えた外灯を、いつもより少しだけ長く見上げた。

それから、家に帰った。


アパートの部屋は寒かった。
台所の蛍光灯のうち、奥から一番目が、また点滅していた。

橋本は、それを見上げた。

踏み台を持ってくれば、取り替えられる。
持ってこなければ、明日もそのままだった。

橋本は、踏み台を出さなかった。

代わりに、テーブルの上にあったノートを開いた。
ボールペンを握る。
指は、もう震えていなかった。

一行だけ、書いた。

——世界中の誰も、俺のことを最初から知らなかったことにしたい。

書いてから、しばらくその一行を眺めていた。

声に出したことを、文字にしたのは初めてだった。
消そうと思えば、消せた。
ただ、消さなかった。

ノートを閉じて、テーブルの端に置いた。

明日、自分がこのノートを開くかどうかは、わからなかった。
読み返すかどうかも、わからなかった。

ただ、書いたものは、そこにあった。

明日までなら、置いておける。

それ以上のことは、考えなかった。


橋本は、台所の蛍光灯をもう一度見上げた。

白い光が、明滅していた。

その下で、彼は明日の作業の段取りを、ぼんやりと並べ始めた。

タイヤ交換が三件。
オイル交換が一件、入るかもしれない。
工具を夕方のうちに並べておけば、朝、少し楽になる。

ただ、今夜のところは、もう何もしないことにした。

蛍光灯は、明滅したまま、夜の中に残っていた。
橋本は、それを消さなかった。

外で、湿った雪が、少しだけ強くなっていた。


【了】


※本作は、実際の会話や記憶を素材に、生成AIの支援を受けて執筆したフィクションです。人物・設定・出来事は、作品として一部再構成されています。

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お知り合いの方へ:思い当たる人物がいても、そっとしておいて下さい。